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■ 発泡するタイのオレンジジュース ■

2000年タイ


 最初の海外はタイのプーケットでのんびりリゾート旅行だった。計画はすべて友人まかせのこの旅が小田蘭の旅の発端。
 それからいくつかのツアーや友人との個人手配旅行を経て、初めての一人旅はバンコクだった。

 小田蘭にとって初の海外、初のビーチリゾート“プーケット”。それは全行程フリーの殆どをひたすらホテルのプールとビーチでのんびり過ごすという、日頃は出来ない贅沢な時間の使い方に終始した旅だった。
 街にも出かけたけれど食事はホテルの中で取る事が多く、なかでも私達にとって大のお気に入りとなったのがフレッシュオレンジジュースである。食事的には街外れの食堂で食べたバミーが美味しかったと記憶しているのだけれど、私達の中の美味しいものナンバー1はホテルで飲んだオレンジジュースだ。
 毎日一度は必ず頼み、帰国時には
「もうあのオレンジジュースが飲めなくなるのね〜〜」と悲しくなるほどハマったあの味。友人の一人は帰ってからオレンジジュースを飲んでも美味しくなくて、ついに日本で飲むのを止めてしまった程である。

 さて、数年の時を経て1999年4月。
 メキシコ3往復で溜まったマイルを利用してバンコク一人旅を計画した小田蘭は、出発前にかの友人からあることを頼まれた。
「お願い! あのオレンジジュースを見つけたら密輸してきて! ジュースがなかったらオレンジそのままでもいいからさ」
 彼女はいまだ、あの味を求め続けていたのだ。
「密輸って、あのね・・・」
「だって果物は持ちこめないでしょ」
「そりゃそーだ。検疫で引っかかるよ。あれってジュースなんかの加工品もダメなんだっけ?」
「さぁ、知らない。だけど念の為に荷物の奥底に入れて持ってきてよ。ランラン荷物小さいけど、それくらいなら入るよね?」
「・・・分かった。見つけられたらね」
「やったー!」
 かくして密輸の命を受け、私は一人バンコクへと向かったのだった。

 ドキドキワクワクの一人旅。一応女の一人旅であるのでそれなりの注意は払い、“暗くなったら出歩かない”を基本に昼間はバスとボートと歩きで移動。食事は主に食堂や屋台。その場で食べたり持ちかえり。もちろんジュースも何度か飲んだ。
 デパートのフードコートを利用してオレンジジュースを頼んでみる。マーブンクロングのフードコートで飲んだ、シロップが入ったそのジュースはちょっとあの味に似ていた。
 でもなにか違うんだなー。それにこれは持って帰れないよねぇ。
 コンビニで売っている紙パックのオレンジジュースを買ってみた。パッケージの写真は緑色の皮のオレンジで、
「これはもしやあのオレンジ?」と期待を賭けて飲んでみればそれは所謂「みかんジュース」。
 う〜ん、なんか違う……。
 あの味にはなかなか出会えないまま向かえた帰国日、その朝に屋台のオレンジジュース売りを発見した。
 その場で絞ったオレンジジュース! これは求める味の可能性かもしれない。しかし朝である。そして帰国の便は真夜中だ。空港へ向かう前にこの場所にまた来たとして、このオレンジジュース屋台がいるだろうか…。多分無理だろう。
 ええい! 1日くらい大丈夫、買ってしまえ。
 フードコートの時と同じくシロップを入れてくれようとしたが、さすがにシロップ入りの甘いものを長時間置いておくのはとっても怪しげである。ジュースだけを500mlのペットボトルに詰めてもらい、タオルで包んで荷物の奥に仕舞い込む。家に帰ったらすぐに冷蔵庫に保管して、友人に手渡せたのはその夜だった。買ってからの時間は約1日半。冷蔵庫の中に入っていた時間は半日、丸1日は常温で保管されていた。

 友人の手許にオレンジジュースが渡って翌日、メールを開くと件の彼女からメッセージが入っていた。
「ねぇ! 炭酸入りですかっ?!」
 ……? た、たんさん…?
「帰ってさっそく蓋を開けたらプシュって音がしたの。それで一口飲んでみたら舌がピリピリするのよー」
 うひゃあ!
「一応飲まずに冷蔵庫に入れてあるんだけど、こういうジュースなの?」
 ちがう。絶対に違う!
 慌てて返信メールをしたのは言うまでもない。
「飲まないで!!」
 搾ったジュースをその場でボトルに詰めてくれたものだから密封度は低く、更に加えて常温保存で時間が経った果汁100%のオレンジジュースは発酵が進んでいたようである。
 文字どおり“泡”となって消えたオレンジジュース。それは彼女の自宅の庭で植物の肥料になった。

 発泡オレンジジュース事件から1年後、私は三たびタイへ入国することになる。
 バンコクにいる間やアンコール遺跡めぐりの間、その事はすっかり頭から消え去っていた。しかし帰国直前にバンコクのドン・ムアン空港で、それも飛行機に乗り込む時になって目に飛び込んできたペットボトル入りのオレンジジュースが1年前の記憶を呼び起こした。そう、見付けたからには買わねばなるまい。1つは昨年発泡するジュースを渡してしまった友人へのお土産、1つはその場で飲んでみた。
 んー、なんか「ポンジュース」な感じ……。ちょっと酸味が強いかも。
 さすがに今回は空港内売店での購入だ。完全密封されていたジュースは持ち帰っても発泡していなかった。
「前回ああだったから恐る恐る飲んでみたよ。発泡はしてなかったし、あの味になんとなく似てたけど、やっぱり何か違うのよねー」


 旅行中の味に再会することは難しい。その土地の“雰囲気”という名の調味料がふりかかり、時間が経つにつれて味の記憶は消化されて“思い出”になり、それらが混ざり合って容易には再現できなくなっているのだと思う。
 きっと私も、もうあの味を正確には覚えていない。それでもタイでオレンジジュースを見つけるたびに、この事を思い出しては買ってしまうことだろう。いつか、あの味に出会えることを期待して。



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