★飛行機の話1(1997) |
「ふぁ〜、あふ」 大きな欠伸と伸びをして、蘭は窓の外の景色を眺める。埼玉県の大宮駅から成田空港へ向かう空港バスに乗込んで約一時間、順調に行けばそろそろ千葉に入る頃である。 前日は飲み会で、翌日は夕方のフライトだからと二次会も最後まで付きあってしまった為、バスに乗ってたちまち熟睡してしまったらしい。ふと目が覚めて、一緒に乗込んで隣に座っている銀子にバスの進行状況を尋ねる。 「今どのへん?」 「まだ東京出てないわよ」 「は?」 「都内渋滞なんだって」 「渋滞って、今何時……うひゃー三時すぎてんじゃん。待ち合わせ、いやそれよりも飛行機の時間ーー!」 通常なら大宮から空港までは約二時間。平日ということもあり、渋滞もないだろうと大宮を一四時に出発するバスに乗ったのだが、予想に反して都内の渋滞に引っかかってしまったようだ。 バスに乗っているのは今回の旅行計画中心者である小田蘭と、彼女の会社の同期である前山銀子。そして成田でもう一人、近七生子と合流して計三人、夏休みを利用してメキシコ旅行へ行く途中である。 「うわーん、間に合ってくれるかなー。夏休みとは言え会社から七日も休みもらって来たのに、飛行機に乗れなかったらここで終っちゃうじゃないかー。こんな所で終わりなんて、笑い話にしかならないよ」 「小田ちゃん。それは私のことを言ってるのー?」 「え? いやー、そんな。ぎんだって台風で沖縄までの飛行機飛ばなくって、空港から会社に電話した時の二の舞なんてヤでしょ」 「あたりまえよ! あの時の電話口での上司の笑いを堪えた話し方、思い出すだけでも悔しいわ」 「うんうん、あたしも大笑いしたっけねー。あ、いやごめん。ほらっ、台風も渋滞もいくら私らが騒いでもどうにもなんないもんね。あー、やっぱ行きは電車にすべきだったかね」 友人の古傷を突ついてしまい、慌てて話を反らそうとする蘭であった。 出発便は成田発一七時五○分のJL12、バンクーバー経由メキシコ行き。 今回の旅行はツアーではなく個人手配なので出発二時間前に集合という決まりもないのだが、それでも余裕を持って一六時に成田のLカウンターで待ち合わせをすることにしていた。しかしこのままではとても待ち合わせ時間までに成田へたどり着けそうもない。成田で合流する七生子の航空券も蘭が握っているというのに。 蘭の父親に現地で安く航空券やホテルを手配してもらい、航空券は蘭の元に一括して送られてきた。航空券・ホテル代金も振り込んだ、待ち合わせも決めた。しかし、飛行機に乗れなくては全てが水の泡になってしまう。三人で飛行機を見送ることになってしまうのか? 乗客がいくらイライラしようが渋滞は遅々として解消せず、刻一刻と時間だけが過ぎていく。前の座席では、乗り合わせた初対面同士と思われる中年の男性と女性がお見合いの様な会話を交している。どうやら男性の方は一九時前後の飛行機らしい。女性の方も時間には余裕がありそうだ。しかし、蘭達の飛行機は一七時五○分には離陸してしまうのだ。 一六時過ぎ、運転手が無線で現在の状況を伝え、何かを確認している。 「ご乗車の皆様、都内渋滞のため大変ご迷惑をお掛けしております。もうしばらくで千葉に入りますが、ただ今の情報で千葉市内事故で二q程渋滞しているとのことでございます。大変申し訳ございませんが、ご了承下さいます様お願い申し上げます」 都内の渋滞をやっと抜けたと思ったらこれである。 「なにー? どこのどいつだ、こんな時に事故だなんて!」 「嘘でしょー? もう四時過ぎてるってのに、七生ちゃん心配してるだろうなー。もう、どうでもいいから間に合ってー」 一六時四五分。バスはやっと調子良く進み出した。 「うわー、やっと空港近くの風景になってきたけどさ、チェックインって何分前までだっけ? 三○分前から搭乗開始なんだよね」 「ってことは五時二○分から搭乗よね、そうするとチェックインってその一○分とか一五分前までかなー? 今となってはバス乗る時に荷物室に荷物入れさせてくれなくって助かったわ。これで着いたらすぐにダッシュできるもん」 「確かに。あの時は何で荷物室に入れさせてくれないんだー、って怒ったけどね」 「きゃー、もう五時になるー」 気は焦るばかりで時間はどんどん過ぎていく。蘭と銀子の焦りは周囲の人達にも分かったらしい。斜め後ろの席で出国カードを書いていた二十代後半と思われる男性が声を掛けてきた。 「あの、もしかしてJALのメキシコ行きですか?」 「そうです、間に合うかなー」 「僕もなんですよ、たしか五時二○分発ですよね、もう絶対無理ですよねー」 「えっっ?! 五時五○分発じゃないですか?」 十七時二○分なんて冗談ではない。銀子が慌ててチケットの時間を確認する。チケットに書かれている時間は、確かに一七時五○分となっていた。 「ほら、チケット。五時二○分て搭乗開始の時間ですよ、三○分前だもん」 「あ、それなら少し安心しました。でもそれでもギリギリですね」 「大丈夫よ、きっと待っててくれるわよ」 通路を挟んだ席の中年女性が言ってくれたが、チェックインもしていない乗客を待ってなどくれないだろう。 一七時、空港敷地内に入るバスにはパスポートと航空券のチェックの為に空港職員が乗り込んでくる。今日はバスも満員状態で、荷物室に入れて貰えなかった荷物が通路に溢れて係員の通行を妨げ、バス内を一巡するにも時間がかかる様子だ。 「わーん、チェックなんかさっさと済ませてよ、もうすぐなのにーーー!」 「第二ターミナルの方が先に到着するよね、降りたらダッシュ。行くよ、ぎん」 「オッケー」 一七時一○分、成田空港第二ターミナル到着。大宮を発車して約三時間強、ようやくの到着である。蘭と銀子はとりあえず先程の青年に声を掛けて、荷物を掴んで降りると同時にLカウンター目指して走り出す。 「すいません、お先に失礼します。お互い乗れるといいですよね。じゃあ」 「うわーん、間に合ってくれー」 降車場からそう遠くない位置にLカウンターが見つかり、蘭達が走って来たのが見えた七生子が立ち上がる。 「あーっ、やっと来たー」 「ごめん、遅くなった。とりあえずチェックインしよう。はい、チケット。まだ大丈夫だよね」 「うん、チェックイン五時一○分までだって」 「うっわ、マジでギリギリ」 七生子とばたばたと合流し、挨拶もそこそこに荷物を通してカウンターで手続をしてもらう。個人受付のカウンターは比較的空いていて、手続きは五分もかからず無事に終了した。 「ごめんねー、七生ちゃん。一時間以上遅刻したわ。もぅ、都内渋滞だし千葉に入っても事故渋滞だし予想外だよ。あたしら来なくって焦ったでしょ」 「バス会社のカウンター行って渋滞だってのは確認したんだけどね、さすがに五時過ぎたらどうしようかと思ったわ。チケットは小田ちゃん握ってるし連絡はつかないし、空港の人に聞いたらチェックインは五時一○分までだっていうしさ」 「本当にギリギリだったんだね、あたしら。良かったー、間に合って。同じバスにやっぱり同じ便でメキシコ行くお兄ちゃんも乗っててさ、一緒になって焦っちゃったよね」 「うんうん。あ、あのお兄ちゃんだ、今荷物チェックしてる。良かったね、お互い間に合ったみたいで」 空港使用料二○四○円のチケットを券売機で買いながらチェックインカウンターを振り返ると、先程バスで一緒だった青年がチェックインの最中だった。 三人はそのまま出国ゲートへと進む。なにしろギリギリのチェックインだったのだ。飛行機に乗り込むまでに通らなければならないチェクポイントは多くある。 金属探知ゲートをくぐり、出国カウンターでスタンプを押してもらう。これでやっと飛行機に乗れる身になるのだが、だいたい出入国のカウンターというのはいつも混んでいて、ひどいときは三十分以上待つこともあるので余裕をもって臨みたいところだ。 今回はチェックインカウンターといい出国カウンターといい、比較的空いていて楽に通過できたのは嬉しいことだった。しかも航空券を手配してもらったメキシコ観光は、航空券と一緒に出入国カードとメキシコ入国の際の書類一式も同封してくれていた。その上、日本の出入国カードには自署名と職業以外の必要事項が既に記入してあったのだ。これらの書類作成を旅行社に頼む場合、その手数料を払わなくてはならないのだが、今回の手配は全て父親に任せていたし、急いでいる身には大助かりだったのだから文句はない。 「メキシコ観光ありがたいね、出入国カードもう記入済」 「本当だわ、急いでる身には助かるねー。メキシコの入国書類も入ってるじゃない、これでオーストラリアの時みたいに慌てなくてすむわね」 「でしょでしょ、あたしもそれ見て思い出しちゃったよ、オーストラリア」 「え? なになにオーストラリアって」 蘭と銀子が顔を見合わせて大笑いする。何のことだか分からない七生子が尋ねると、銀子が思い出し笑いをしながら答えてくれた。 「去年同期四人で夏休みにオーストラリア行った時の話なんだけど、大体行き先の入国書類って機内で配られるじゃない?」 「うん、今回みたいにやってくれるのってツアーでもお金取られるから、いつも頼まないもんね」 「そうでしょ。わたし達のツアーは現地係員がお世話してくれたけど、添乗員はいないやつだったの。それで機内食食べた後皆して眠りこんじゃって、スチュワーデスが配ってくれたの知らなかったのよ」 言葉を区切ってぷぷぷっと笑った銀子の後を蘭が引き継いで話す。 「で、着陸する間際になって他のツアーの添乗員が『カウンターではパスポートと先程記入した入国書類が必要ですから…』って言ってるのを聞いて、オーストラリアの入国書類ってあたしらいつ書いたー? って皆で顔見合わせて、慌てて書類貰ったんだよね」 「あっはははー、やーねぇもぅ。海外旅行初めてじゃないでしょうに」 「そうなんだけどねー、あの時は本当に慌てたわ」 そんな失敗談を話しながら出国カウンターを通過する。 ここからは日本にいるのに日本を出てしまった事になる。一種不思議な空間だな、といつも蘭は感じるのだが、今回はそんな感傷に浸っている余裕などない。 各種免税店があり、いつもなら友人に頼まれた化粧品や煙草を物色したりするのだが、今日はそれらを素通りして足早に搭乗ゲートへ向かう。 「あー、煙草頼まれてたのにとってもそんな時間無いわ」 「わたしもクリニーク見たかったなー」 「うう、ごめーん。バンクーバーで一時間トランジットがあるからみんなその時だ。あたしも頼まれ物あったんだけどな、しょうがない。」 「あっっ!」 突然銀子が立ち止まって声を上げた。先を進んでいた蘭と七生子もその声に驚いて立ち止まって振り返る。 「なに? ぎん、なんか忘れた?」 「米ドルの両替。一○○ドルくらいは持ってた方がいいって小田ちゃん言ってたじゃん。両替所もう過ぎちゃったよ」 「そうだった! うーん、しょうがない。七生ちゃん確か上司から買い受けたトラベラーズチェック持ってるって言ってたよね」 「うん。ちゃんと持ってきたよ、二五○ドル」 「メキシコペソはあたしのシティバンクカードがあるから現地で引き出せばいいとして、何かあったらなおちゃんの持ってるチェックで対応しよう。大丈夫、そんなに使うこともないよ、とりあえずメキシコの通過はペソだし」 「そうね、今から戻るってのも危ない橋だし…」 「よし決まり。じゃあ行こう」 メキシコの通貨はペソである。日本国内の銀行では両替が難しく、今回の旅行では蘭のシティバンク口座に各々いくらか振込んで、それを現地で引き出して使うという話になっていた。しかし一九九三年に0の三桁切り捨てが行われたり、ペソより米ドルの力の方が強く支払に米ドルを要求されることもあり、現地での両替も日本円より米ドルの方が有利であるとのことから、一○○ドルくらいは持っていた方がいいかもしれないと蘭が父親から聞いていたのだ。それでもお互い仕事が忙しくて銀行で両替することが出来ずに、多少レートが悪くても最終的に成田で米ドルに両替することにしていた。だがそれも渋滞のせいで計画が狂ってしまい、両替もできず免税店ものぞけず、慌しく飛行機に乗り込んだのは実に離陸の五分前だった。 しかし離陸は四〇分遅れ、成田を飛び立ったのは十八時三〇分。まずはこれからバンクーバーまで、約九時間のフライトである。 |