★バスルームにおけるCとFの使い方 |
(おかしい、お湯が出ない…) メキシコ到着の夜はホテル内のレストラン『サンボルンス』で軽い夕食と明日からのメキシコ旅行の打ち合わせ。そして明日に備えて早々に解散して部屋へ戻る。 部屋へ戻った蘭は、さっそくお風呂用品一式を掴んでバスルームに直行した。 だがしかし、いくら回しても温かいお湯が出ない蛇口を前にして裸のまま立ちすくむ状態となっていた。 (なんでだろう、メキシコだからかなー。こういうとこの設備がイマイチで、お湯になるまで時間がかかるのかな?) 蛇口から勢いよく出る冷たい水を見つめても、それは一向にお湯に変わる気配がない。一旦水を止め、バスタブの蛇口に二つある把手を確認する。 (『C』ったら『コールド』だよなー。左の把手が『C』ってのがちょっと不思議だけど、メキシコって左が水なんだ) 左の把手には『C』の文字、右の把手には『F』の文字がついている。その二つを見比べて、もう一度右の把手を回してみる。 (『F』ってのもよく分かんないけど、ここはメキシコだ、スペイン語圏なんだからスペルの違いで『ホット』が『F』になんのかな? それにしても出ないなー、お湯。壊れてんのか?) 蛇口から出る水はいつまで待っても温かくならない。蘭はもう一度水を止めると、念の為にと今度は左の『C』と刻まれた把手を回してみた。 (押しても駄目なら引いてみなって言うもんね、『F』が駄目なら『C』を……って、お湯が出たー?!) 『C』と『F』の文字が逆に刻まれていたのか? 果たして『C』の文字が刻まれている左の栓を開けてみれば、僅かの後に水はどんどん温かくなりお湯となって勢いよく蛇口から出てきたではないか。 (なんでなんでなんでー? 『C』って『コールド』でしょ? えーー?! なんで『コールド』の方からお湯が出てくんの? ……ま、お湯になってくれたからいいけど。うーん、いきなり水になったりしないだろうなー) とりあえず、お湯が出てくれたのだからこのうちにさっさとシャワーを済ませてしまおう、と蛇口からバスタブに流れ出るお湯をシャワーに切り替えて頭から浴びると手際よく全身を洗っていく。その後、シャワーを終えて下着と靴下を洗面台で洗ったときも、お湯は左の『C』の栓を開けると出てきたのだった。 メキシコでは『C』の文字がお湯を意味するのか、それともこのホテルの表示がおかしいのか。疑問を残したまま翌日を迎える蘭であった。 翌日、朝食の席でこのことを話すと、銀子と七生子の部屋でも同じ事が起こっていたようだった。 「そうなの、わたし達の所もそうだったのよ」 「最初なかなかお湯にならないんで焦ったわ。これはもしやホテルの従業員を呼ばなくちゃいけないの? でも呼んだはいいとしても英語で通じるかなー。ってさ」 「あ、やっぱりー? ってことはメキシコって、水とお湯の表示が他と違うのかなー。それともこのホテルの蛇口が逆なの? 今まで行ってきた国じゃこんなことなかったもんね」 バイキング形式の朝食で各自の皿に食べ物を取り分けテーブルに戻ってくると、さっそく料理を口にしながら昨夜の水道事情を話し合う三人である。蘭の両親も合わせて五人になる一行は、壁際に位置する六人掛けのテーブルに案内された。三人が料理を取りに行っている間、その荷物を見ていてくれた蘭の両親が入れ違いに食事を取って席に戻ってくると、三人の会話を聞いた父親があっけなくその疑問に答えを返してくれた。 「ああ、それであってるんだよ」 「ええ? あってるって、『C』からお湯が出てくるんで正解ってこと?」 思いがけない台詞に蘭が驚いて聞き返す。 「だって、『C』って『コールド』の『C』じゃないんですか?」 七生子も不思議な顔で尋ねるが、そうではないのだと言う。 「メキシコはスペイン語だからね。『コールド』は英語だろう。スペイン語では『冷たい』というのは『フーリオ』と言って、頭文字は『F』なんだよ」 「それじゃあ、バスルームの『F』は『フーリオ』の『F』……」 七生子は昨夜の蛇口の栓に付いていた『F』の文字を思い浮かべながら言う。 「そう。それで『C』は『熱い』の『カリエンテ』で頭文字は……」 「『C』?」 蘭が言葉の後を継いで聞くと、頷く父親とその横で微笑んでいる母親がいる。『F』を回してさんざん待っていた昨日の自分はなんだったのか、と蘭は自分の予備知識の無さを痛感した。 「あたしもこっちに来た当時はよく間違えたわよ」 そう言ってくれたのは母親だが、文化の違いを云々言う前にまずは言語の違いを考えなければならない、としみじみ思ってしまう三人だった。 |