★水の都
「ソチミルコで舟遊びしてきたら? 一度くらいは行ってみるのもおもしろいよ」
 初めてのメキシコ行きで「遺跡! 遺跡!」と騒いでいた蘭に、そう父親が進めてくれた水郷ソチミルコ。
 綺麗に飾られた小船を借りて湖をのんびり進むと言うが、はっきり言って蘭の心情としては「えー…? それより遺跡回ってる方がいいなぁ。水遊びだったらカンクンのカリブ海でちゃぷちゃぷするもん」であった。舟で水遊び、と聞いて公園にある申し訳程度の池のようなものをイメージしてしまったのだ。
 その認識はソチミルコに到着して早々に改められた。確かに船着場は広くない。しかしそこには屋根付きでカラフルにペイントされた小型の舟が、湖の水が見えないくらいに所狭しとひしめき合っていたのだ。船の正面の屋根には各々名前がついていて、殆どが女性名であるという。
「ひゃー、すっごい舟の数。これ、奥の舟にはどうやって乗り移るんだろ。え? 手前の舟に乗れ? でも手前のに乗ったらどうやって進むんだー?」
「大丈夫って言ってるけど? それに好きな舟選んでいいって」
「そんな事言われても……わたしにはどれも同じに見えるし、どれでもいいわ。とりあえず、この一番近いのにしておく?」
「そだね。もうなんだっていいわ、あたしも」
 午前中で舟遊びをするには少し早い時間なのだろうか、三人は立っている位置から一番近い舟をマルコに示す。すると彼が交渉をしてくれる。
 四人が乗り込むと、その舟についてくれた船頭や周りの人達が足や腕で舟を取り囲む舟を押しのけて隙間を作る。すかさず船頭が長い棒を水に差し込み、湖底を突いて舟を推し進める。そうして少しずつ隙間を作っては、舟は後ろ向きに船着場を離れるのだった。
「へぇー。こうやって進むんだ」
 その様子につい感心して呟いたのは七生子だった。
「長い棒で水底押して進むなんて、なんだかベニスみたいで素敵。あ、もちろん行った事ないけど」
「ベニス! あたしも写真で見たことある。のんびりと運河を進む舟のイメージだね。それにしちゃあ最初の船着場は力技だったけどね」
「うんうん。確かにー」
 笑いながら舟に揺られて暫くすると、水路のように細い場所を抜けて他にも舟遊びに出ている舟が現われだした。湖の中ほどにやってきたのだろう。
 途中で自分たちが乗っている船より小さくて屋根もない、それこそ公園のボートに似た舟にいくつもすれ違う。花を乗せていたり、食べ物を積んでいたり、織物を積む舟があるのは蘭達のような舟遊びの人達を相手に商売をしている地元の人だという。呼べばこちらまでやってきてくれると言うが、生憎と興味を引かれるものは見つからなかった。
 うららかな、というには若干汗ばむ陽気の中、周りを見渡せば同じ様な舟遊びの観光客も多い。すれ違う欧米系観光客と手を振り合い、メキシコ人家族の団欒の舟にも出会う。そして時々聞こえてくる音楽。
「あれ? なんかこの音楽って、マリアッチ?」
 そういえば物売りの舟より若干大きめで屋根がついた舟に、揃いの黒い服を着た人達が楽器を片手に乗っているのも目に付いた。その楽団の人数、舟の大きさも様々だ。大人数のマリアッチは楽器の種類も豊富である。
「あ、あそこ見て! マリアッチの舟が舟遊びの人達と併走して演奏してるわー」
「本当だ。一曲いくらかで演奏してくれるんだって」
 マルコが説明してくれた話によると、マリアッチの舟を呼ぶと求めに応じて好きな曲を側で演ってくれるらしい。それを聞いてそれなら一曲くらい、と客待ちのマリアッチを探す。しかしこういう時に限って、見つかるのは演奏している舟ばかりなのだ。
「いた! ほらあそこ」
 七生子が見付けたのはいくつかの舟の間から見える、割と離れた位置にいる舟であった。
「ちょっと遠くない? 気付くかなー」
 蘭が手を振ってみても遠すぎるのかマリアッチ楽団は気付く気配もなかった。
「オラ! アミゴ! ××△○」
「! いっ、いまマルコ『アミーゴ』って言った?」
「言ったよ、言った! うわー。本当に呼びかけで使うんだねぇ、『アミーゴ』って。なんか、今すっごくメキシコな気分になったわ、私」
「わたしもー。あ、マリアッチ気付いてくれたみたいよ。こっちに来てくれる。……きゃー、しかも早いわ〜〜」
 マリアッチに向かって大声で声を掛けてくれたのはマルコである。それに気付いて周囲の舟の隙間を縫い、大急ぎで近づいてくるマリアッチの舟。毎日湖の上を行き来している船頭の棒さばきの素早さと、メキシコ流の掛け声に感心しながら二曲演奏してもらったのだった。


last up date/2006.04.01