★白亜の遺跡
 パレンケの遺跡観光の拠点としてビジャエルモッサという街がある。今回の旅行に出るまではまったく知らなかった土地であるが、ここはタバスコ州の州都でもあり、巨大な頭だけの石像で知られる『オルメカ文明』発祥の地でもあるのだ。
 パレンケ観光の拠点となっているとは言うものの、ビジャエルモッサからパレンケへは車で二〜三時間の距離がある。ここを拠点にするからには、遺跡への往復と見学でどうしても丸一日は必要だ。
 蘭達三名がビジャエルモッサへ到着したのは夜だった。空港では予め予約しておいたタクシーの運転手に出迎えてもらい、その日はホテルへ直行、翌日パレンケへと向かう。ビジャエルモッサ二泊の滞在中は全行程同じ運転手と車を予約しているので移動の足を心配する必要はなかったが、実際昼間に行動できるのは一日半と短い。スペイン語のできない蘭達の為に父親が頼んでくれたのは英語のできる運転手。空港からホテルまでの車内の拙い英語のやりとりで、翌日は九時にホテルまで迎えに来てもらうことになった。


 七月十三日日曜日午前九時、メキシコシティに比べて大分湿気の多いビジャエルモッサの朝を迎え、時間通りに迎えに来たタクシーに乗り込んでこれからパレンケまでは二時間強のドライブである。乗り込んだ車はトランクの脇に『TURU』と名前の入った日本車であった。これはメキシコでの日本車のブランド名であるという。
 街を抜けるとパレンケまでは両側を単調な樹々や丘に挟まれた一本道をひたすらに走りつづける。スペイン語のできない蘭達と、もちろん日本語など出来るはずもない運転手では話が弾むこともなく、時折思い出したように交わされる運転手と英会話担当の七生子の言葉も、暫く進むうちに途切れがちになる。
 長く前後に伸びる道、時には左右に交差する細い道が現れるが、それがどこへ続いているのか、見回しても茂みの中へ消えていく道の行先は不明である。すれ違う車も少なく、時々追い抜いていくのは荷台にぎゅうぎゅうに人が乗り込んだトラックが多い。追い抜かれる度に荷台から一斉に注目を浴びて、手を振られたり声をかけられたりと大騒ぎになってしまうのはどうしたことか。
「ねぇねぇ、さっきっからどうしてこう、こんなに注目浴びるかなー」
 何度目かのトラックに追い抜かれ、そう言ったのは蘭だった。
「初日のテオティワカンでもそうだったけど、白人は多いけど東洋人ってあんまり見なかったから珍しいんじゃない?」
「そう言えばそうね、アメリカやヨーロッパは場所的に近いから旅行しやすいんじゃないのかしら。アジアって太平洋挟んでるから遠いもん」
 メキシコに入ってまだ三日であるが東洋人の姿はほとんど見かけなかった、と七生子と銀子が口にする。
「直行便もあんまりなさそうだもんねー、距離的にも時間的にも確かに遠かったわ」
「あ、また抜かれるよ」
 七生子の言葉に右の窓を見やると、今度もまた追い抜いていくのはトラックだった。
「ちょっと、このトラックってば併走してるよ!?」
 後部座席右側に座っていた蘭が並んで走るトラックを指差しながら隣の二人を手招きする。
「どうしてこうなるのー? しかも皆こっち覗いてるじゃない」
 左側に座っている銀子もこちらに乗り出してくる。
「えい、とりあえず手は振っちゃえ」
 振られたからには手を振ろう、とトラックの荷台を仰ぎ見る格好で蘭が手を振ると荷台はますます大騒ぎになり、そのトラックは徐々にスピードを上げて走り去っていった。
「いったいなんだったんだ、今のは…」
「でも、なんでトラックの荷台って、あんなに人がたくさん乗ってるんだろうね。皆で仕事にでも行くのかなー」
「七生ちゃん、聞けっ。聞いてみるんだ!」
「えーっと、ちょっとまってね」
 後部座席中央に座る七生子が運転席に乗り出して質問してくれる。この旅行メンバーに七生子の様に会話のできる人間がいてくれて本当に助かった、と思う蘭である。蘭と銀子では単語を並べるだけになってしまうし、その語彙も少ないので意思の疎通が上手くいかなくて大変に苦労するのだ。
「なんだって?」
 運転手との会話を終えて七生子がシートに腰を落ち着けると、さっそく蘭が聞いてくる。
「なんかあれ、タクシーみたい」
「タクシー?」
 銀子と蘭の声が揃って聞き返す。
「うん。タクシーっていうより乗合バスっての? こんなとこだし、公共の乗り物なんてないから乗れるものは皆で使うというか、今の運ちゃんの言葉をはっきり理解できたか不安はあるけど、そんなものだって」
「はー。確かにこんな所だし、移動には車がないとツライだろうとは思うけど」
「皆が自家用車持ってる訳でもなさそうだもんね」
「そうみたい」
「でもあれ、歩いてる人もいるわよ」
 銀子が今度は道の左側を指す。そこには荷物を持った一人の女性が歩いていた。
「あ、ほんとだ。どこ行くんだろう、あの人」
「ちょっとそこまでおつかいに……っても相当な距離あるよね」
「ちょっとって距離じゃないと思うわよ、小田ちゃん」
「だよねー。確かに時々横道はあるけどさ、その先も見えないんだもん」
 ここから見えるのは、緑の樹々と丘とのんびり草を食べている牛くらいである。
「ここからは見えないだけで、案外集落と集落は奥の方で近く繋がってるのかも?」
「それならこんな所歩いてないで、近い方の道使って行き来するでしょう」
「そうよね。───あっ、さっきの乗合トラックがあるじゃない!」
「それだ、ぎん! そうかー。とりあえず歩いてて、乗せてくれるトラックが通ったらそれに乗る、ということね」
「なるほどね。歩いている人が居る訳も、荷台いっぱいのトラックも説明ついたわ。あ、時間的にそろそろパレンケ到着近いかもよ、ぎん、小田ちゃん」
 トラックタクシーのおかげで眠くもならず、午前十一時、蘭達の乗ったタクシーは遺跡の近くにあるパレンケ村を通って遺跡見学者用の駐車場に到着した。


「なんか、人多くない?」
 駐車場に車を止め、混雑する人込みを掻き分けながら運転手に連れられて遺跡入口へと向かう。駐車場に入るまではそれほど人もいなかったのに、そこから遺跡へ向かうにつれてどんどん人が多くなる。入口前の手洗いでも人が列を作っている。
「それに蒸し暑ーい。朝よりずっとベタベタするわ」
「緑に囲まれてるからかな、すっごい湿気。ジャングルの中の遺跡って言われてるらしいけど、いかにもって感じだね」
 遺跡の入口まで連れてきてくれた運転手が、そこにいた人に何やら話をするとこちらに向き直る。ここで遺跡の英語ガイドにバトンタッチするようである。先程の駐車場で待っているから十五時までに戻ってくるように、と言って運転手は駐車場へと戻っていった。
 ここで一組のメキシコ人家族と一緒になり、ガイドに連れられていよいよ遺跡へと足を踏み入れる。ガイドを先頭にして、混雑に彼を見失わない様、続いて進む。
「あれ? ねぇ、あたしら入場料は?」
「今朝タクシーの運ちゃんに二日間のタクシー代と一緒に英語ガイド代金も払ったじゃん、それに含まれてるんじゃないの?」
 慌てる蘭に、七生子が冷静にもっともなことを言ってくれた。
「あ、そっか」
「そうそう。きっとそれでOKなんだよ」
 三人は納得して進んでいくが、実はそうではない。本日七月十三日は日曜日、メキシコでは日曜日になると遺跡や博物館、美術館といった施設の入場料が無料になるのだ。それを狙って訪れる人が多いため、日曜日にはどこも多くの入場者で賑わうことになるのである。パレンケも例に漏れず本日は無料開放日、人が多いのも半分以上はその理由からだろう。
 ガイドに続いて入口を入り進んで行くと、最初に現れるのは『碑銘の神殿』と呼ばれる左右に長く伸びる遺跡である。向かって真ん中と左右に建物が残っていて、それを繋ぐ部分はまだ土に埋もれているが、この遺跡の中からはパカル王の墓が発見されている。本物はメキシコシティの国立人類学博物館に保管されているのだが、この左側の高いピラミッドからは中に入ることができ、そのレプリカを見ることができる。そのこともあり、今も大勢の人達がピラミッドを登っていく姿が見える。
 この石棺には宇宙船の内部だとも言われる絵が描かれていて、パレンケは実は宇宙人が作ったのだ、という説まであるという。また、この発見によってメキシコのピラミッドも王墓として使われていたことが分かり、考古学上とても重要な遺跡である。
 その大物は後にとっておくことにして、ガイドはどんどん先へ進む。『碑銘の神殿』を後に『宮殿』を通りすぎ、川に架る橋を渡って進む先はまさにジャングルである。
「うっひゃー、あたしらどこまで進んで行くんだろうね。遺跡どんどん通り過ぎていくけどさ」
「最初にあった『碑銘の神殿』? それは最後に登って中へ入るみたいなこと言ってたわよね」
「うん。あの脇に斜面があって、下からピラミッドに登んなくても横から頂上まで行けるんだって。ほらあそこ、後ろから回り込んでる人いるよ」
 七生子が指差した先には、ピラミッドのすぐ後ろに位置する丘からピラミッドの三分の二程の高さに直接移って行く人々が見えた。
「ほんとだー。あんなとこがあるなんて、びっくり」
「あっ、あっ! 七生ちゃん、小田ちゃん。立ち止まって見てたら置いていかれちゃうよー」
「やばっ、追いかけなきゃ。道分かんなくなっちゃう」
 立ち止まった三人に気付かなかったのか、知っていても大丈夫だと気にしなかったのか、ガイドはメキシコ人家族をつれて大分先へ進んでいた。慌てて追いかけると、緑生い茂る森の中で何かの穴を覗きこんで説明を始める所だった。
 スペイン語と英語を交えた説明はほとんど理解出来なかったが、まだまだこの森の中にも発掘されていない遺跡が数多く埋もれている様である。
 足場の悪い森の茂みを掻き分けて更に進み、樹の合間に『ジャガーの神殿』を眺めると、来た時とは違う道を通って森を出る。


 続いて太陽と十字架の神殿群に向かうが『十字架の神殿』は修復作業中で、その周囲には縄が張り巡らされビニールシートが被せられている部分もある。早く修復が終わり、全ての遺跡を見て回れるようになることを願わずにはいられない。
 さて、『宮殿』や『碑銘の神殿』から川を挟んでこちら側にある『太陽の神殿』『十字架の神殿』『葉の十字架の神殿』はその三つで小さな広場を囲む様に建っている。向かい合う位置にある『太陽の神殿』と『葉の十字架の神殿』は、お互いの神殿前に立つと反響の関係からか大声を出さなくても会話が出来るというから驚きである。
 そして川を越え、来た道を戻るといよいよ『宮殿』と『碑銘の神殿』だ。
 『宮殿』の一角には四階建ての塔があり、四つに区切られた中庭がある。残念ながら塔に登る事はできないが、この塔は壁面が東西南北を面していることや踊場から金星を表す絵文字が見つかったりと、天文台の役割があったのではないかと言われているそうである。更に『宮殿』内にはバス・スチームの設備や地下を流れる水路を利用した水洗トイレもあったと言われ、この蒸し暑い土地にバス・スチームとはさぞかし快適だっただろうと思えてしまう。
 一番大きな中庭の壁には人物像の浮き彫りが施され、その二メートル強の大きさは横に並ぶと圧倒されてしまう。
 漆喰の白と崩れた石の黒いコントラスト、その周りを囲む鮮やかな緑。それらが絶妙なバランスで同居しているパレンケの遺跡。そのすべてを象徴したような『宮殿』の中に立つと、徐々に周りの音が遠ざかって行くような錯覚に捕らわれる。
 『碑銘の神殿』へはピラミッドの脇から登る。そして一番上の神殿から内部へ通じる階段を降りていけばパカル王の墓室へと辿り着くことが出来るのである。
「うう〜〜。すっっごい湿気!」
 さっそく階段を降り始めたところで七生子が声をあげた。
「なんだか水滴の中を潜って行くみたいだわ」
 この銀子の表現はまさに今の状況を的確に表わしていると言えよう。ただでさえ湿気の多いジャングルの中、ロクに通気口もない石造りの地下へ降りて行くのだ。空気中の気化した水分が液体に戻り、水滴となって空気中に漂っている気がしてくる。
「これ、壁も水分で湿ってる……って…うわっっ!」
「大丈夫? 小田ちゃん」
「気をつけないとヤバイよ。階段も水滴で湿ってて足滑らしちゃった〜〜」
 さっそく滑って危うく転びそうになった蘭が三人の中で一番最後に中へと入っていった。人がすれ違える程度しか幅のない狭い階段である。気をつけないと一人が滑ったら登っている人も降りている人も、そこから下にいる人全員を巻き添えにして一気に下まで落ちてしまいそうだ。
 気を付けながら進んだ突き当たりには、マヤ文字がびっしりと浮き彫りにされた一枚の石がある。これが十二歳で即位し、パレンケを繁栄に導いたと言われるパカル王の墓の蓋である。


 遺跡を歩くということは、直接肌でその時代を感じるということだ。今、この時から数百年の昔へ……。


last up date/2006.04.01