★怪しいスペイン語の覚え方 |
メキシコの公用語はスペイン語である。蘭がそれを意識したのは父親の赴任前、自宅に置かれていたNHKスペイン語講座のテキストを見つけた時だった。 もちろん今回の旅行メンバーの中にスペイン語が分かる人間など誰もいない。ホテルや空港等、外国人観光客が多く集まる場所では英語が通じることもあるが、メキシコは基本的に全てスペイン語である。必要最低限の英語でさえ心もとない蘭に、「どうした英文科!」とからかわれることの多い銀子である。必然的に旅行中のコミュニケーションは、現在英会話教室に通っているという七生子に頼ってしまう。なにしろ銀子と蘭では必要な時に必要な単語が出てこないのだ。 しかし、メキシコでは英語よりもスペイン語なのである。 「The air conditioner doesn’t work. This room is hot. …OK?」 『◯×△………』 ビジャエルモッサでチェックインしたホテルの部屋はエアコンの調子が悪く、どこを弄っても部屋の温度が快適にならなくて人を呼んだ。しかし、部屋にやってきた従業員はこちらが英語で何を言っても全く通じない様子である。 「どうしよう、英語じゃ通じないよ」 英語で一通りの説明を試みて、更に簡単な英単語だけを並べてなんとか分かってもらおうと従業員に向かっていた七生子が諦め顔で銀子と蘭に向き直る。 「やっぱりスペイン語? でもなんて言うのさ、『クーラーの調子がおかしい』って。いや、『部屋の温度が下がらない』でもいいんだけどさ」 「えっと、ほら『冷たい』と『熱い』ってなんて言うんだっけ? 蛇口のCとFってそんな意味だったよわね」 初日に確認した蛇口のスペイン語標記を既に忘れている三人であった。とりあえず、来てくれた従業員を前にしてああでもないこうでもないと怪しい英語と日本語を並べてみる。 「だからー、この部屋が暑いの! このエアコンからあんまり風がこないから…」 言葉ではどうやっても通じないと判断した銀子は、ジェスチャーで意思を伝えようと手で顔を扇ぐ仕種をして、エアコンのスイッチをカチカチと操作してみる。 しかしそれでも三人の言いたいことは彼に伝わらない。困惑気味に立ち尽くしているが、目の前で三人もの人間に訳の分からない言葉を捲し立てられれば、彼だってどうしていいか分からないだろう。 「あー、もういいや。Thank you. グラシアス」 少しも発展を見せないこの場を一番早く諦めたのは七生子だった。数少ない覚えたてのスペイン語でお礼を言うと、チップを渡してそのまま帰ってもらう。 「あ、帰しちゃうの?」 「だって、これ以上言ってたって通じないよ、きっと」 「それもそうだねー」 七生子の言葉に蘭も同意する。 「壊れてるって言ってもまったく効かない訳じゃないし、少しくらい我慢するか」 「うん、しょうがないね。それにしてもやっぱりスペイン語かー、こっちまで来ると」 「まさかOKまで通じないとは思わなかったわね。参ったわ、これから先どうする?」 蘭の両親とはメキシコシティで別れている。これから先パレンケの遺跡を回ってカンクンへ行き、もう一度メキシコシティへ戻るまではスペイン語の出来る人間が誰もいないという状況でどう乗りきるのか。不安は大きいが楽天的な三人は割と呑気に構えていた。三人がそれぞれの心の中で思っていたことは『まぁ、なんとかなるでしょ』である。 カンクンまで行けばそこは世界的なリゾート地。しかも欧米から距離的に近いということもあり、ここではほとんどの所で英語が通じた。ビジャエルモッサで多少苦労はしたものの、過ぎてしまえばそれはもう振り返ってもどうにも出来ない過去のこと。以前のことも先のことも深刻に考えすぎないお気楽な三人であった。 スペイン語は『自遊自在』と蘭の母親から借りた日本語/スペイン語の簡易辞書を持ち歩いて、事あるごとに意味を調べていたがカンクンでは思いのほか英語が通じて少々驚いた。それでもビジャエルモッサからの続きで出歩く時は『自遊自在』と辞書を忘れずに、ついついスペイン語を調べることに熱中してしまう。ここまでくると一種のゲーム感覚である。 「もうお腹いっぱい。ぽんぽん!」 ホテルのプライベートビーチでのんびりと一日を過ごした後、夕飯をビーチサイドのレストランで食べた時もバッグの中にはその二つがそろっていた。 「お腹一杯ってなんて言うんだろうね」 七生子が言って、『自遊自在』を持っていた蘭が頁を捲る。 「『おいしい』は『サブロソ』でしょ。あたしこれを言う度に『サブロミン』って単語が頭に浮かんでさー。なんだっけ『サブロミン』って、と考えてたら昨日やっと思い出したよ、どっかの会社の薬の名前だったわ」 「小田ちゃん職業病?」 蘭は製薬会社の社員であった。 「いやーっ! 遊びに来てまで仕事のことなんて考えたくないよ。──で、『お腹いっぱい』って載ってないよ。何で調べたらいいんだろ。ぎんの方は?」 事象別に事例が載っている辞書を持ち歩く役割になっている銀子もパラパラと頁を捲っている。 「『おいしい』ね・・・。あ、違う違う『満腹』っと。食事の頁かな? ──ぷっ」 「どうしたの?」 「え? あのね、ここに『充分です』って単語があるんだけど、『エストド』って言うんだって」 「エストド?」 「うん。思わずトドがSの字になってるのを想像しちゃった。トドが『きゅー』って体反らしてんの」 「な、なに考えてんのー?!」 「だって、いきなり頭にその図が浮かんだんだもん」 三人が三人ともその光景を頭に思い描いてしまい、大爆笑を巻き起こしたSの字のトド。おかげでこの言葉はしっかりと全員の頭に刻み込まれた。 『充分です』はSの字のトド、『エストド』である。 |