元の原稿が縦書きなので、漢数字等見難い部分がありますがご了承ください。


★遺跡は登る為にある?
 畑中美代子と小田蘭は共に遺跡好きである。その二人がメキシコへ行く、となればこれはもう遺跡巡りの旅となるのは当然だろう。
 メキシコシティでテオティワカン、メリダではウシュマル・カバー・サイール、カンクンでエルレイと、これまで五つの遺跡を訪ねてきた蘭と美代子の『メキシコ遺跡巡りの旅』最後の遺跡はかの有名なチチェンイツァーである。
「さーあ、いよいよチチェン! みーちゃん、お腹は大丈夫?」
「大丈夫、なんとか回復した。いや、させたわよ。目指せチチェンの【カスティージョ】。登るぞー!」
 二日前からお腹の調子がおかしかった美代子であるが、どうやら気合いで治したようだ。とりあえず今日さえ持ちこたえてくれれば明日にはメキシコシティへ戻って、明後日には日本である。
「いざ行かん、チチェンイツァー! チャックモールがあたしを呼ぶのだっ。ガイドブックには【戦士の神殿】修復中で登れないって書いてあるけど去年の話みたいだし、もう登れるだろう。登れるといいな。わくわく」
 本日のチチェンイツァーは、航空券の手配でお世話になっているメキシコ観光主催の日本語ツアーに参加する。詳しい説明を日本語で聞きたい、と思ってのことであるが金額的には高めである。
 参加者を宿泊ホテルで次々にピックアップして、帰りもそのホテルまで送り届けてくれる。蘭達の場合は八時に宿泊ホテルのロビーに集合、少し大きめのバンが迎えに来た。ハイアットリージェンシーでは女二人組を乗せ、マリオットとムーンパレスでそれぞれ新婚夫婦をピックアップ。ガイドも含め、全員が二○代〜三○代前半の若者ツアーは一路チチェンイツァーへ!


「改めましてこんにちはー。本日皆様のガイドを担当させて頂きます、竹内と申します。今日一日、よろしくお願いします!」
 本日のツアー客が全員揃ったところで、よく陽に焼けた元気一杯の女性は自己紹介をすると運転手にスペイン語で何事かを話し掛けた。ホテルの敷地を出た車は徐々に速度を上げて走り出す。
「よろしくおねがいしまーす」
 竹内の挨拶に全員で答える様子は、まるで先生に引率される生徒の様である。
「さっそくですが、本日の予定をざっと確認させて頂きますね。まずはこれから途中でトイレ休憩を一回いれて、高速を使って約三時間かけてチチェンイツァーへ向かいます。カンクンがあるのはキンタナ・ロー州ですが、チチェンイツァーのあるのはユカタン州となります。キンタナ・ロー州は周りの州とは一時間の時差がありますので……」
「えーっ! やっぱりそうなんですね」
 カンクンに到着した空港で時差があることに驚き一度は納得したかの様に見えた蘭であったが、ここで再度ガイドから時差の話を聞き、やっぱりあるんだよなーとつぶやいた。
「どうかしましたか?」
「去年カンクンに来た時はメキシコシティと同じ時間だった筈なのに、今年になったらいきなり時差が出来てるんですもん」
「ああ、今年からなんですよ」
 竹内はあっさりとそう言った。
「え?! そうなんですか?」
「ええ、去年までは確かに時差はなかったんです」
「なーんだ、よかった。時差なんてなかったってあたしの主張は間違いじゃなかったでしょ。ね、みーちゃん」
 よかったよかった、と竹内から明快な回答が得られた蘭はホッとする。
「うん。でもじゃあなんで今年から時差なんて作ったんだろう」
「どうやらニューヨークと同じ時間帯にしたかったみたいですね」
 これまた竹内があっさりと言ってくれた。
「ニューヨークと同じって……」
「あちらからの観光客は多いですからね、それでじゃないでしょうか」
「そんなことぐらいでーー!」
 時差の謎が解けたはいいが、そんなに簡単に時差って変えられるものなのか、と今度は新たな謎が湧く。
 竹内の説明も一通り終り、車が高速に入ってしまうと後は真直ぐな道がひたすら続く。対向車も同じ車線を走っている車もほとんどなく、ところどころ低木の繁る同じ景色の中をひたすら進むのみである。

 ようやく到着したのはユカタン州時間で午前一○時三○分。どうせまたカンクンへ戻るのだ、と時差を調節しない蘭のカンクン時間の腕時計では一一時三○分である。道はあれほど空いていたのに、チチェンイツァーは混んでいた。いったいどこから、と思うくらいたくさんのバスに車に人、人、人。さすがは世界遺産に登録されている遺跡である。
「では、入場の手続きをしてきますので、少しこちらで待っててもらえますか」
 ツアー用の受付でもあるのだろう、竹内が人混みに分け入っていき、戻ってくると全員を連れて入口を抜ける。
 メインゲートの人混みを抜け、最初に目に飛び込んでくるのは【ククルカンのピラミッド】とも呼ばれる巨大な建造物【カスティージョ】だ。スペイン語で【城】という意味を持つこのピラミッドは、底辺が五五m四方、高さが二三mになる。四面にはそれぞれ九一段の階段があり全面で三六四段、これに頂上の神殿への一段を加えると三六五段。丁度一年の日数分になるのである。ゼロの概念を持ち、既に一年が三六五日であると知っていたというマヤの人々に思いを巡らしてみる。
 しかしすぐに二人はピラミッドに目を戻し、【カスティージョ】の階段に足を掛けてさくさくと登っていく。
「これよこれ、やっと自分の足で登れるのねー」
「念願叶ってあたしは嬉しい! いっくぞー」
 喜々として登り始める蘭達とは対照的に、他のツアー客はおっかなびっくり足を運んでいる。
「怖くないですか? この高さ」
 新婚夫婦の一人に言われるが、ウシュマルに登った蘭達にはこのくらい何でもなく感じてしまうから不思議である。
「私達ウシュマルの【魔法使いのピラミッド】に登ってきましたから、あそこはこんなもんじゃなかったですよ。私もあれ登るまではこんなのとっても駄目だと思ってましたけど」
「あーれはすごかったもんね、六○度」
「小田ちゃんってば、さくさく登ってたくせによく言うわ。でも本当、ウシュマルであれほど苦労して登ったのに比べれば【カスティージョ】は楽な方だわ」
「ウシュマルにも行かれたんですか?」
 ガイドの竹内も一緒に登っている。彼女はツアー客を案内する度に一緒に登っているそうだが、それはそれですごいことだと思う。
「はい。今回のあたし達は遺跡巡りの旅なんです。チチェンイツァーで遺跡六つ目かな」
「明後日にはもう日本だもんね。これが登り納めだわ」
 登りきると頂上で神殿の周囲をぐるりと回る。緑のジャングルが広がる先には、いったいいくつの遺跡が眠っているのだろうか。数ある遺跡に思いは尽きないが、まずは今この場にいるチチェンイツァーを踏破するのだ。
 西側の階段から登って北側の階段から降りると、その階段の下にはククルカンの頭の像がある。毎年春分と秋分の日の年二回、夕方になると階段の横にできる太陽の影がそのククルカンの頭と繋がり、天から降りてきたように見えるという。
 その神々しいまでの光景を見ることはできないが、しかしちょっとした不思議な体験ならいつでも自分で作り出すことができるのだ。
 北側の階段から一定の距離を保って階段に向かって手を打つと、『チュン』という澄んだ音が聞こえるのである。音の反響の関係がどうなっているとか難しいことは分からないが、すこしでもその位置を外れると手を打っても音は聞こえないし、手を打つ人から離れてもその音は聞こえない。
 そういえば美代子がテオティワカンで似た様な話をしていたな、と思い出す。
「みーちゃん、テオティワカンで言ってた『手を叩くと音がする』って、ここのことだったんじゃないの?」
「そうかなー、確かにテオティワカンでも音がするって読んだと思うんだよね。うーん」
 拍手を続け、音を響かせながら蘭と美代子が話していると、竹内が全員に集まるようにと声を掛けた。
「この【カスティージョ】の中にはジャガーとチャックモールの像があって、あそこから中へ入ることが出来ます」
 竹内は北側の階段の脇を指差して続ける。
「中はとても狭くて蒸し暑いですが、皆さん入りますか?」
 もちろん、入らずに【カスティージョ】を後にすることなど出来るものか。蘭と美代子程の意気込みはないものの、全員が入ることになり、入口で順番待ちをする。入口には管理の係員が立っていて、一度に大勢が入らないように入場制限をかけていた。それほど中は狭いのだ。
「パレンケの中も暑かったけど、ここもやっぱりムシあつーい」
 漸く順番が回ってきて中へ入る。昨年訪ねたパレンケはピラミッドの頂上から神殿内部へ階段を下っていったが、ここでは階段を上ってチャックと対面することになる。湿気でじめじめと滑りやすい石段を上り、じっとこちらを見つめる緑に苔むしたチャックモールとその後ろで牙を向く赤いジャガーに辿り着く。しかしここは狭いのだ。いつまでも最前で陣取っている訳にもいかない。後ろから続く人に位置を譲り、早々に退散しなくてはならなくなる。
 この中から出て来れば、日差しの強い外も一瞬心地よく感じられる。
 続いて次に向かうのは、お待ちかねの【戦士の神殿】である。だがしかし、竹内の言葉が蘭と美代子を打ちのめす。
「次は【戦士の神殿】に向かいますが、残念ながら今はもう上に登ることはできません」
「ええー!! なんでですか!」
 二人は声を揃えて竹内に詰め寄るが、【戦士の神殿】の上にいるチャックモールには是非間近に会ってみたかったのだ。期待していただけに、その言葉はあんまりである。
「きゃあ、そんなに怖い顔しないでくださいよ。いつでしたか、ドイツ人の観光客があの上から転落して亡くなったんです。それで危険だ、ということになって普通の観光客は登ることができなくなってしまったんです」
「なにー! ドイツ人め、あたしの楽しみを奪いやがって!」
「ひどい。あそこのチャックにも憧れてたのに」
 【戦士の神殿】に辿り着いてみれば階段の下には紐が引いてあり、スペイン語と英語で『PROHIBIDO SUBIR/DO NOT CLIMB(登るな)』と書いてある。
「あううー、登らせてー!」
 思わずその紐を掴んで駄々をこねてしまうが、こうなっていてはどうにもならない。上を見上げて届かぬ思いをチャックモールに飛ばすのみ。
 しかたなく【戦士の神殿】の脇に続く【千本柱の間】を通り、奥の【市場】へと足を進める。
「くすん。竹内さん、あっちの奥行ってもいいですか」
「ええ、どうぞ」
 たくさんの柱の間を縫って、蘭と美代子はどんどん奥へ進んでいく。
「ああ、登りたかったなー」
「せっかく来たのにお会いできないとは」
「はぁっ」
 ぶちぶちと言いながら【戦士の神殿】を後ろから眺め、更に柱が途切れると今度は右へ向かって歩いていく。他のツアー参加者も後に続いて、その当時市場が開かれたという場所まで辿り着いた。もうこの先は何もなさそうだ、という所まで進んで崩れた石の周りをうろつく。当然ガイドである竹内も一緒にここまでついて来ている。
「そろそろ戻って次は【セノーテ】へ行きませんか? こんな所まで来た人は、ガイドやってて初めてですよ」
「え? そうですか。うわぁ、あたし達がどんどん進むから、皆してついてきちゃったんですね。すいません。そういやあたし、バリでも遺跡見学中に『こんな人初めてです』って言われたな。そんなにヘン?」
「うん。変。って言うか、変わってるのは確かだね」
「みーちゃんに言われたくないやい。さ、竹内さん【セノーテ】行きましょ」
 チチェンイツァーの北の外れにある泉は生贄の泉と呼ばれ、今では暗い緑色に濁ってしまっているが、その当時は澄んだ綺麗な水が湧いていたという。その泉の下に棲むといわれた雨神チャックの為に生贄や財宝が投げ込まれたこの泉からは、実際に何人分もの人骨や金や陶器が見つかっているという。
 泉の縁には立入禁止の紐が張ってあり、そこから下を覗き込むと水面までは結構な高さがある。ここから投げ込まれたのではひとたまりもなかったろうと思うが、それよりも今のこの泥沼の中には浸かるのだって遠慮したいものだ。
「でも、当時は底が見えるくらい澄んでいたらしいですよ。今では水が湧き出る所と泉に溜まった水が流れ出ていく場所が詰まってしまって、こんな状態になってますけど」
「ふーん。そんなもんなんですかね」
 竹内の説明を聞きながらここで暫く休憩を取る。【セノーテ】の側には売店があり、冷たい飲みものも売っているので大勢の人がここで休息を取っていくらしい。泉の周囲は人でいっぱいだった。
 【セノーテ】から【カスティージョ】を正面に見て戻ってくると、今度は赤い色が残っている【ジャガーと鷲の台座】を通り【ツォンパントリ】へ。頭蓋骨が台座一面に彫られているのは、見ていてとても不気味な感じがする。ここは生贄となった人達の頭蓋骨を晒す場所であったという。
 そしてメソアメリカで最大の【球技場】、その隣には【ジャガーの神殿】が建つ。【球技場】は長さが約一五○・、幅約八○・と言われるが、実際ここに立ってみると、この広さの中を駆け回ってボールを両壁上部の輪に潜らせるのは相当な体力と技術が必要だったんではないかと思われる。
 【球技場】を南の端から出る時に気付いてみれば、丁度頭の高さにククルカンが口を開けた像がある。それを見て何事かを思いついた蘭は、先を歩く美代子を呼び止めた。
「みーちゃん」
 呼ばれて振り向いた美代子が見たものは、ククルカンの開いた口に自分の頭を挟ませている蘭であった。
「見て見て。『ククルカンに飲み込まれるー』」
 思わずつんのめってしまいそうになる自分を堪えてしまう美代子であった。
「なに馬鹿なことやってんの。置いてくわよ!」
「あははー。ごめんごめん。なんかククルカンの口と頭の位置が同じだったもんでさ」
 まったくもう、と先へ進もうと向き直ると、これから【球技場】へやってくる日本人の集団と擦れ違う。
「ツカレマシタカ?」
 その後ろから付いてきたガイドらしき白人男性に、いきなり日本語でそう声を掛けられた。
「はい? え?」
「まだまだです!」
 一瞬何がなんだか分からずに狼狽えてしまう美代子に、とっさに答えてしまう蘭。いったい今のはなんだったんだ? とお互いに顔を見合わせ、竹内の案内で次の目標へと進む。
 今まで見て回っていたのは【新チチェン】と呼ばれる九○○〜一二○○年代の時代のもので、これから進むのが四○○〜七○○年代の【旧チチェン】である。
 【旧チチェン】を築き上げたマヤ文明は、一度歴史の舞台から姿を消してしまう。後に中央高原の覇権を握った戦闘部族トルテカ人と手を組み生まれたのがマヤ・トルテカ文明と呼ばれるものであり、【新チチェン】ということだ。
 【旧チチェン】へと進んで行くと、まず右手に【高僧の墳墓】がある。五つの偽装された墓の奥からは翡翠などの埋葬品が発見されている。
 【旧チチェン】での見所は、なんと言っても【カラコル】と呼ばれる天文台だろう。九・程の高さの台座の上に乗った約一三・の観測台。ドームの様な観測台の内部が螺旋階段になっていることから、スペイン語で【カタツムリ】という意味の【カラコル】という名が付いている。
 やはりここも人でいっぱいである。カンクンや他の街ではほとんど見掛けなかった日本人観光客も、ここでは大勢会うことができる。いったいどこにこれほどの日本人がいたのだろうか。
 蘭と美代子は【カラコル】ももちろん登れる所まで登り、その先にある【尼僧院】へと進んで行く。
 【尼僧院】はその壁面がチャックや様々なモザイク模様で飾られた美しい建物である。プーク様式のこの建物は、なるほどウシュマルやカバーで見たものと似た印象がある。端が崩れて紐が張ってあり登ることは叶わなかったが、この装飾だけでも見応えがある建物である。【尼僧院】という名が付いてはいるものの、実際の役割は不明である。
「では、これで一通りチチェンイツァーの遺跡は回りました。この後は昼食に向かいますが、よろしいですか?」
「はーい。オッケーです」
「駐車場までの近道を通りますので、来た時とは別の道を進みます。はぐれないように付いて来てくださいね」
 【旧チチェン】を回り終ると、竹内の案内で近道を通り駐車場へと向かう。
「今日も暑いですよね、大丈夫ですか?」
 先頭を行く竹内と話しながら歩く。
「はい。まだ大丈夫です」
 今日まで五つの遺跡を訪れては登っている二人であるが、これまで筋肉痛にもなっていないのだ。それよりも、後ろに続く他の六人の方が疲れているようである。
「あなた達は元気そうですよね」
「竹内さんだって、チチェンにはガイドで来て毎回登ってるんでしょう? 元気ですよね」
「やっぱりチチェンイツァーのツアーって、人気ありますか? よく来ます?」
「そうですね、週に一、二回は来るかもしれないですね」
「おお! そんなに」
「あとは、イスラ・ムヘーレスへ行ってイルカのショーを見るツアーとか、結構人気ですよ」
「イスラ・ムヘーレスのイルカ! あたし去年行きましたけど、イルカが病気とかでショー見れなかったんですよ」
「えー、そんなことあるんだ」
 思えば昨年のカンクンでは同行者の疲れが強く、チチェンイツァーは断念して近場のイスラ・ムヘーレスへ船で遊びに行くツアーに参加したのだが、肝心のイルカのショーが見れなかったことがあった。信じられないくらい綺麗なカリブ海と陽気すぎる船員には楽しませてもらったが、ショーの中止は残念だったのだ。
「時々あるみたいですよ。イルカと一緒に泳ぐことができるんですけど、たまに欧米のすごい体格の方もイルカに掴まったり乗ったりするからイルカも辛いみたいで」
「なるほど」
 それはそうだろう。と妙に納得してしまう蘭である。
 駐車場に着いた頃には、時刻は蘭の腕時計で一四時を回っていた。チチェンイツァーに居たのは二時間半、ウシュマルやテオティワカンに費やした時間に比べて短い気はするが、ガイドの説明と効率良い遺跡巡りで見るべき所はしっかり見て登るところは登る。いくつかは登って行けない場所があって悔しい思いをしたが、それなりに満足のいくチチェンイツァー日本語ツアーであった。


last up date/2005.11.06